【2019-01-02】自己イメージを新しくするのじゃ【元気が出る説法】
人が自己イメージを持ち、それによって自己を認識していることは既に書いたのじゃ。
その自己イメージの働きを観察できれば無我にも至る事ができるのじゃ。
十二因縁とはそのためのものなのじゃ。
自分があるという観念から好悪が生まれ、執着から苦も起こるというのじゃ。
その自分があるという観念が無明であり、自己イメージによるものなのじゃ。
自己イメージによって次々に起こる働きを観察することで、自己イメージそのものも厭離できるというのじゃ。
そのように自己イメージがあれば諸々の苦が起こるのであるが、自己イメージが健全でなければ修行もままならないこともあるのじゃ。
自己イメージとはその者の能力を限定する役割も果たしているからなのじゃ。
自分は何をやっても駄目だという強い否定的な自己イメージをもっていると、その通りに行動し、修行も達成できずにやめてしまうこともあるじゃろう。
否定的な自己イメージによって自分の能力も否定してしまうからそうなってしまうのじゃ。
そして更にそれを改善しようとしても、思考すらも否定的になってしまうから行いも常に失敗してしまうのじゃ。
逆に自分には何でも出来るという強い肯定的なイメージがあれば、修行も完成できる可能性が高くなるのじゃ。
それもまた自己イメージによって能力が開放されたからなのじゃ。
自己イメージが善ければ考え方も善いものになるから迷うことなく進むことが出来るのじゃ。
このように自己イメージによって能力や結果が左右されてしまう故に、健全な自己イメージを持つ事が大事なのじゃ。
しかし、自己イメージも観念であるから改善することは出来るのじゃ。
その法が以前にも書いた献身の道である神仏のイメージと一体化する法なのじゃ。
自分のイメージを神仏のイメージと一致させることで、自分のイメージに縛られずに智恵や能力を開放することができるのじゃ。
それはインドのヨーガに古くから伝わり、密教にもある法なのじゃ。
古くから生身の者が神仏の智恵と力を授かる法とされてきたが、現代の心理学も漸く追いついてきたのじゃ。
この法を自己イメージの改善に使うには、出来るだけ大きな神仏のイメージを使うとよいのじゃ。
自己イメージが卑小である者は、物理的にも自分を小さなものとして感じているのじゃ。
それを打破するために出来るだけ大きなイメージを用いるのじゃ。
浄土三部経にあるような身長何キロもある阿弥陀如来になるというような大きさがよいのじゃ。
少なくとも十メートルぐらいの神仏を思い描くのじゃ。
強いイメージが出来たら自分の体と合体したとイメージするのじゃ。
献身の名の通り、神仏に心身を献納し尽くして自分のイメージを抹消するのじゃ。
神仏に自己を捧げ尽くし、神仏に成り切るのじゃ。
無限の智恵と能力を持ち、出来ないことなど一つも無いという万能感が起こるまで一体化するのじゃ。
何日も続けて熱心に行っていればそのような感覚もわいてくるのじゃ。
そのような感覚が強く起こるようになったら、その視点から今の自分や環境を観察するのじゃ。
神仏の視点からは今の自分に足りないことや、すべきことなどがありのままに見ることができるじゃろう。
開放された智恵によって今までの自分では知りえなかったことも知ることが出来るのじゃ。
それが神仏と一体化することの効果なのじゃ。
献身の道の記事も参考に実践するとよいのじゃ。
神仏に借りた智恵によって自らの道を見出すことが出来るのじゃ。
強い否定的な自己イメージがある者は思考さえも否定的になる故に、このような方法で正しい智恵を養い、正しい道を見出す力を身につける必要があるのじゃ。
数回やって駄目だったと諦めてしまえば何も効果は無いのじゃ。
ただ一念を通す心構えで日々続ければ、点滴石を穿つように大きな効果も得られるのじゃ。
今の自分を変えたいと思う者は実践あるのみなのじゃ。
【2019-02-02】心を観て苦を滅するのじゃ【苦滅の道理論】
お釈迦様がこの世は一切皆苦と説かれたように、今も多くの者が苦しんでいるじゃろう。
その苦にもまた多くの種類があるものじゃ。
金が無いのに苦しむ貧窮困苦
愛する者と会えなくなる愛別離苦
怨み憎む者といがみあう怨憎会苦
欲するものが得られない求不得苦
そして万人が避けられない老病死苦等と人はさまざまな苦に悩まされるものじゃ。
それらの苦を滅するには苦を生み出す自らの心の働きを、完全に観察しなければならないのじゃ。
心を観ることから逃避していれば苦はいつまでも起こり続けるのじゃ。
苦とは心から起こるものであるからなのじゃ。
貧窮困苦などは環境の要因であるから、心から起こるのではなく、心を観てもどうにもならないと想う者もあるかもしれん。
しかし、貧窮も実際はそれを苦にする者の心からあるものなのじゃ。
金が無いことへの不満とか、将来への不安とか、金に執着する心が苦になるのじゃ。
それらがなければ貧窮も苦ではないのじゃ。
そのような苦を心の中にはっきりと観て、原因からも観察する事で苦はなくなるのじゃ。
誰かが苦を持っていてそれが完全に解消するということがあったならば、それは心の中の苦を見る事ができたからなのじゃ。
それ以外に苦がなくなることはありえないのじゃ。
環境が変ることで苦は一時的に感じなくなることも在るのじゃろう。
しかし、その場合は苦をもたらした環境に戻ればまた苦が感じられるようになってしまうのじゃ。
苦を完全に解消するには、自らの心の中にある苦をはっきりと観る必要が在るのじゃ。
とはいえ心をどのように観察すればよいのかと、疑問に想う者もいるじゃろう。
そのためにお釈迦様は縁起の法を説いたのじゃ。
人の心は刺激に対して同じ反応をするように出来ているのじゃ。
そのために同じ原因からは同じ苦が何度も起こるのじゃ。
それを自己同一化している故に、苦は自分のものとして人を悩ませるのじゃ。
観察して自己同一化がなくなれば、苦は自分のものではなく、悩むこともなくなるのじゃ。
それが観察によって苦が無くなる理由なのじゃ。
要は観察すればよいのであるから縁起の法だけでなく、さまざまな方法で苦を滅することも出来るのじゃ。
最近の心理学でもいろいろな方法で心を観ることができるようになっているのじゃ。
どのような方法でも人が真に苦から逃れることが出来るのは、苦を生み出す心の中をありのままに観たことによるものであると知るがよいのじゃ。
今苦を抱えている者は自らの心をありのままに受け入れ、観察して苦を取り除くと善いのじゃ。
【 2019-03-02 】不死の境地【 悟りの真実 】
悟りを得られれば不死の境地に入れるとお釈迦様は説いたのじゃ。
不死の境地とは死を超越した境地なのじゃ。
苦の最たるものである死を超越することがお釈迦様の教えの真髄なのじゃ。
仏教の全てはそのためにあるのじゃ。
死を超越したならばもはや他の苦も一切なくなるのじゃ。
死以上の苦はないからのう。
それでは人はどのようにして死を超越することが出来るのじゃろうか。
死とは肉体の働きが停止することなのじゃ。
それに伴って肉体に拠っていた全ての能力もなくなるのじゃ。
感覚とか思考とか感情とか認識などもなくなるのじゃ。
それらが自分であると思っていたならば死は自分の消滅であり、絶望しかない現象なのじゃ。
しかし、肉体とその能力だけが自分であり、その他に自分は無いという観念に囚われていなければ死は消滅ではなく、絶望でもないということになるのじゃ。
そのように自分という観念を正しく捉える事で、死を超越することになるのじゃ。
実際に肉体が自分であり、自分は肉体しかないという観念は謬見でしかないものじゃ。
人の肉体は呼吸や食事や飲み物を通して物理的にも全てと繋がっているのじゃ。
それが個体であり、個我であり、他のものと分別された自分であるということはありえないのじゃ。
例えば呼吸ならば鼻から入った空気がいきなり自分になり、鼻から出て行けば自分ではなくなるということもないじゃろう。
自分とはそのようにはっきりした境界を持たず、あいまいな観念を習慣によって認識しているだけなのじゃ。
自分とはどのような存在であり、どこからどこまでが自分であり、何があれば自分と呼べるのかと知らなければ、そのあいまいな観念に囚われ続けることになるのじゃ。
瞑想と観察はそのあいまいな観念を明確にして、それが自分ではないことに気付く方法なのじゃ。
自分というものを明確に観るように努めることで、それが観念であることに気付くのじゃ。
自分とは主体ではなく実際にあるものではなく、習慣によって形成された観念なのじゃ。
境界さえも不明確な観念が、どうして全てのものごとを認識する主体であり自分であるという事がありえようか。
そのようにして自分という観念から離れたならば、もはや死もあり得ないのじゃ。
自分が無いのに自分の消滅はあり得ないからのう。
更に認識をも超えたならば、全てが繋がっていることが実感としてわかるじゃろう。
天も地も全てのものごともただ一つの同じ本質を持っていることがわかるのじゃ。
膨大な空間さえも又意識が充満していることが感じられるのじゃ。
全てであるならば二重の意味で死は無いのじゃ。
死という観念はなく、死という実際も無いのじゃ。
全てである意識が存在するだけであれば、肉体の消滅はその一部が変質するだけとわかるからなのじゃ。
それが不死の境地なのじゃ。
もはや永遠に意識があるだけなのじゃ。
人は誰でも死の瞬間まで自らを知る努力を続けることで、その境地に到達することもできるのじゃ。
【2019-04-01】足跡と足元を見て進むのじゃ【元気が出る説法】
長く修行している者の中には、もはや飽きてしまったとか、成果も見えないのに続けるのは苦しいとか想う者もいるじゃろう。
それは悪いことではないのじゃ。
昔からそのように感じる者は多いのじゃ。
それを苦にしたり、否定したりすると本心もわからなくなるのじゃ。
そのような修行への熱意を取り戻すにはいろいろ工夫が必要なのじゃ。
先ずは今まで辿ってきた修行の過程を振り返ってみるのじゃ。
日記をつけている者ならば、最初の頃から読み返してみると善いのじゃ。
修行を始める前のことを読めば、以前は苦しんでいたことも、今では夢のように感じるかもしれん。
そのように成果が見られれば、やる気もまた湧いてくるものじゃ。
人間は何の成果も見えない仕事をさせるとだんだんと飽きて、能率も下がるというのじゃ。
時には以前の状態を振り返って、今までの修行を積んできた足跡を振り返ってみるとよいのじゃ。
次には最初の話と矛盾しているが、過去も未来も思わずに今、ここでだけ修行しようと思うことなのじゃ。
今日のこの日、今この時だけ実践すると思えば気も楽になって、修行に励めるのじゃ。
そもそも修行に飽きたり、苦に感じるのは、今までやってきたのに成果があがらなかったと、過去のことを思い出しているか、その修行がこれからもつづくと未来を思うから憂えるのじゃ。
過去や未来を見て、今を見ていないのじゃ。
そのようにして修行に飽きたり、苦に感じたりするのじゃ。
それを防ぐために、今日の今、この時だけ修行しようと決心するのじゃ。
そうすれば過去も未来もなく、今ここにあることもできるのじゃ。
それが足元を見ることなのじゃ。
更には環境を少し変えてみるのもよいのじゃ。
服を変えるとか、座布団を変えるとか、いろいろ変えてみるのじゃ。
それだけでも新鮮な気持ちになってやる気が出るものじゃ。
瞑想の助けにするために、今までやったことのないこともやってみるとよいのじゃ。
お香を焚いてみるとか、自然の音や瞑想に向いた音楽をかけるのもよいのじゃ。
集中のための曼荼羅やヤントラ等の図形を壁にかけるのもよいのじゃ。
信じる神仏の図像も使うとよいのじゃ。
それに囚われてはいかんのじゃ。
囚われない程度に何でも助けになるものを使ってよいのじゃ。
瞑想は形にも囚われないで善いのじゃ。
自分がやり易いようにいろいろ工夫してとにかく続けるようにするのじゃ。
特に病とか多忙で続けるのが難しいと思う時こそ実践すべきなのじゃ。
毎日五分でも欠かさず実践することで、大きな力になるのじゃ。
日々の実践で整えられた心が、苦から逃れる避難所になるのじゃ。
修行者は工夫して日々実践するとよいのじゃ。
【 2019-05-02 】 真の幸運を招く法 【運気向上法】
人は誰でも幸福と安楽を求めているものじゃろう。
そのためにさまざまな行いをしているじゃろう。
しかし、自分では幸福や安楽のためと思いながら、実は幸福や安楽をもたらさない行いをしていることもあるのじゃ。
例えば真面目に規則を守っていれば、幸福や安楽が来ると思っていたりするのじゃ。
そしてそのために規則を破るものを弾劾していたりするのじゃ。
それは自らの幸福と安楽をもたらさないばかりか、破滅の道でさえあるのじゃ。
実際に真面目に規則を守って暮らしていたのに、不幸になったと言う者も多いじゃろう。
それで今まで教わってきたことは嘘だったと知れるならば、それも教訓になるがのう。
それでも真の幸福の道を知ることの出来ない者も多いじゃろう。
そもそも真面目に規則を守ることは、社会や組織のためになるから喧伝されていることに過ぎないのじゃ。
民衆が真面目に規則を守る者だけであれば、社会も秩序が守られると思うから為政者によって教育され、広められているのじゃ。
それは実際には個人には幸福をもたらさず、社会のためにもならない愚かな洗脳なのじゃ。
民衆が上から押し付けられた規則を真面目に守るだけであると、為政者のおかしな命令を誰も止められず、ナチスがユダヤ民族を虐殺したようなことも起こってしまうのじゃ。
ナチスの者達も真面目に規則を守って虐殺を実行して行ったのじゃ。
それは社会と民衆の全てを破壊してしまったのじゃ。
ただひたすら真面目に規則を守るという行いは、個人も社会もいずれは破滅に導くだけの愚かな行いなのじゃ。
規則を守るだけならば、虫にもできることじゃ。
蟻などは社会を持ち、全て規則に従っているものじゃ。
規則を守ることで他人に苦を与えていた者が虫に生まれかわっても何の不思議も無いものじゃ。
昔の中国に過酷な法律を作っていた大臣がいたのじゃ。
旅人には水をあげてもいかんとか、厳しい法で民を苦しめていたのじゃ。
後に大臣は没落して無一文で村をさまよいあるいていたのじゃ。
一軒の家で水を頼んだが、法律があるからと水もくれなかったのじゃ。
大臣は飢えて死んでしまったのじゃ。
厳しい規則を他人に課していたものが、自分もその規則で苦しんだのは当然なのじゃ。
とはいえ全ての規則を破って出鱈目に生きるのがよいということもないのじゃ。
人が行動の基準とすべき真の法がある。
それに従えば個人は幸福と安楽がもたらされ、社会や国家も繁栄するものじゃ。
それは一人一人の心の中にあるものじゃ。
それが慈悲なのじゃ。
慈悲の心に従って行いをすれば、人には幸運がつき従い、組織は繁栄するものなのじゃ。
慈悲に従って全てを行う人や組織は、周りの者や組織もありがたいと思うから、周囲に支えられて繁栄するのじゃ。
規則ばかりを押し付ける人や組織は周りも無い方が善いと思うから、衰退していくしかないのじゃ。
本来は社会の規則も人の利益を図るものであったはずなのじゃ。
しかし、ただ規則を守ればよいとだけ思えば、人を苦しめるものともなるのじゃ。
お釈迦様も多くの戒律を作ったが、迦葉が年をとって戒律を厳格に守るのも苦しかろうと、少しは戒を破ってもよいと勧めたのじゃ。
規則に従って人の苦を増す者は、いずれ自分が苦しむ時になれば規則によって更に苦が増すことになるじゃろう。
時には規則を破っても人の利益を図るものは、自分が苦境に陥った時に他人が規則を破ってでも助けることがあるじゃろう。
慈悲に従って全てを行うことが、自他の繁栄を図る最も賢いやり方なのじゃ。
人が未だ修行が足りなくて智慧が無くとも、慈悲という基準に従うことで真の繁栄の法を実践できるのじゃ。
自らと組織の繁栄を願う者は、慈悲を自らの行いの基準として実践に励むのじゃ。
【2019-06-02 】怒った時こそ許すのじゃ【運気向上法】
自我のある者は自分を守るために、命が危ういと思った時や正当な権利を侵害されたと思った時、怒りが起こるものじゃ。
それは自分を守るための心の働きであるから、意志によって起こさないようにしようとすることはできないのじゃ。
実践を重ねて心が不動になった時から、怒らないことも出来るようになるじゃろう。
それまでには怒りも起こり、それが正当であるとさえ感じられるものじゃ。
正当な怒りであるから他人を責めたり、二度としないようにと痛めつけようとするじゃろう。
正当であるからそれも正しいと感じるのじゃ。
しかし、それは自らを獣以下の存在に陥らせることなのじゃ。
獣は自分の命が危険になるような事態には怒り狂って戦うのじゃ。
餌をとられたり、縄張りに入ってこられるという身の危険が感じられれば激しく戦うのじゃ。
それは獣の習俗であるから怒りに任せた行動をしていると、獣と同じ所に生まれるようになるのじゃ。
怒った時にこそ用心して、注意深く自らの心を観て、寛容を心がけるのじゃ。
そうすれば自らも許されるのじゃ。
自分も他人も心の奥深い所では同一と認識される故に、他人にしたことは全て自分に返るのじゃ。
他人が許せなければ自分も許せないのじゃ。
他人に辛く当たれば自分にも辛いことをするようになるのじゃ。
他人を許せば自分も許せるようになるのじゃ。
そうであるから先ず他人を許すようにするのじゃ。
他人に優しくすれば、自分にも優しく出来るようになるのじゃ。
他人を愛すれば、自分を愛して、他人にも愛されるのじゃ。
そのように他人を許し、常に慈悲をかける者は常に福楽に見舞われ、人の世界以上にも行くことになるのじゃ。
福楽を求める者は怒った時にこそ、寛容を心がけるのじゃ。
ただ一時の感情によって獣に落ちるようなことがないようにするのじゃ。
正当な権利を侵害されたと思った時に、自らに怒ってよい、これは怒ってよいてことであると、思う者も居るじゃろう。
それは攻撃欲を誤魔化す為の隠蔽に過ぎないのじゃ。
自分は攻撃的な者ではなく、正当な権利のために怒っていると欲を隠蔽しているのじゃ。
それに気付かず他人を攻撃すれば自らの心に嘘をつき、攻撃欲をも満たす二重の悪を為すことにもなるじゃろう。
そうであるから怒った時にこそ自らの心を観て、寛容を心がけるべきなのじゃ。
未だ心を制御できない者が怒りを生じてもそれは仕方のない事じゃ。
それでも心の中の怒りを観て、寛容を心がければ悪事を避ける事も出来るじゃろう。
心に怒りを覚えない境地には至らなくとも、怒りを寛容に換えることは意志によって出来ることじゃ。
正当に思える怒りが起こっても、怒りに正当なものなどないことを思い出すのじゃ。
怒りは自我から起こるただの心の反応であるだけなのじゃ。
福楽を求め、苦を避ける者は怒った時にこそ、他人を許すことを心がけるのじゃ。
【2019-07-02】苦が増加する仕組み【悟りの真実】
お釈迦様はこの世の一切は皆苦として、人が苦から離れられない事を説いたのじゃ。
悟りを得ていない者は正にその通り、苦から苦へと苛まれて生きるしかないものじゃ。
生きて苦しみ、死んでも又苦しむのじゃ。
そのように苦しむのも悟りを得ていない者には、無明である自分が存在するという観念の原因があるからなのじゃ。
他のものから完全に独立した主体的な自分があるという観念から苦は起こり、離れられないのじゃ。
間違った観念を正さなければ苦しみは続くのじゃ。
例えば頭のおかしい者が自分は飛べるという間違った観念を持って高い所から飛び降りれば、死んだり怪我をしたりするのじゃ。
そのように現実とは離れた間違った観念を持っていては苦しみは尽きないのじゃ。
悟っていない者が自分は主体がある、自分は思考や感情の主体であると思うことが苦を増す間違った観念なのじゃ。
自我が思考や感情の主体であるならば、それらをコントロール出来る筈であるが、実際は出来ないのじゃ。
自我は思考や感情の主体ではなく、それらに隷属しているものなのじゃ。
自我は思考や感情が勝手に反応することを止められず、それらの奴隷となっているだけなのじゃ。
思考や感情を満足させるために、無駄な行いに時間と心身を費やしているだけなのじゃ。
自我が思考や感情の主体ではなく、思考や感情をコントロールできないことが苦を生み増加させる原因の一つなのじゃ。
例えば異性に強く執着しながら離れてしまう愛別離苦があれば、何度もそれを考えてしまうじゃろう。
思考をコントロールできないのであるから、苦しくても何度も考えてしまうのじゃ。
そして考える度に悲しみの感情を起こしてしまい、苦しむのじゃ。
それも感情をコントロールできない故に、考える度に悲しみの反応が自動的に起きて苦しむのじゃ。
このように一つの苦があれば、それを何度も何度も繰り返して苦しむことになるのじゃ。
それも自我が思考や感情の主体ではなく、それらをコントロールできないからなのじゃ。
更にそれが新たな苦を引き起こすのじゃ。
一度、苦を味わった心はそれを未来に起こるかもしれない事と認識するのじゃ。
そして、それを避けようとするのじゃ。
それが不安と呼ばれる心の働きなのじゃ。
それは本来は苦を避けるための心の働きであるが、却って苦を増加させることになるのじゃ。
不安は心を苛み、更に行動を制限するようにするのじゃ。
この先そのような苦しみを味わう事がないようにと、消極的に行動してしまうのじゃ。
それも思考や感情を制御出来ないことから来る苦の増加なのじゃ。
そのように激しく増加する苦も、原因から観察されれば滅するのじゃ。
未だ悟りを得なくとも、苦を完全に観察できれば消すことが出来るのじゃ。
何度も苦が起こっても、その度に観察できれば消えていくのじゃ。
やがて苦が完全に滅して心が鎮まる安心の境地に入れるのじゃ。
苦から逃れたいと思う者は、実践によって確かめるのじゃ。
【2019-08-02】般若心経の実践法①【悟りを得るための修行法Ⅴ空の法】
以前に般若心経の実践法を書いたが、かなり難しいようであったようじゃ。
これから詳しい実践法を書いていくのじゃ。
基本的に般若心経の法は色受想行識の心身の観念を空と念じて、自己同一化を滅するものじゃ。
観察とは違う法であるが、心身の自己同一化を無くすという結果は同じなのじゃ。
観察が観念を観念と気付かせる法であるのに対し、空と観る法は観念を滅する観念によって自己同一化を無くすものといえるのじゃ。
どちらの法が優れているということはないのじゃ。
修行者の性質によって、法も違うのじゃ。
自らの性質に合う法を選ぶとよいのじゃ。
観察がどうしても難しいという者は般若心経の空の法を実践すると善いのじゃ。
般若心経では最初は色身の空を観想するのじゃ。
肉体を空と観るのじゃ。
色即是空、空即是色と記されている通りに、肉体が空であると念じるのじゃ。
それには先ずは空の感得をしなければならんのじゃ。
前にも書いたが空を感得しなければ、全ての空の法は無意味な観念遊戯となるのじゃ。
肉体の空を念じる法は、空の感得に最も便利な法なのじゃ。
空を感得し、肉体を厭離するための最初の一歩として指一本の空を念じるのじゃ。
任意の指一本を選び、その指が空であると強く何度も念じるのじゃ。
人差し指ならばその人差し指が空であり、無であり、夢幻であり、陽炎のようなものであると念じるのじゃ。
口に出して念じるのもよいのじゃ。
指が空であり、無常であり、あるものでもなくないものですらもないと、一切の観念を否定して観想するのじゃ。
空であるから生じることも滅することも無く、垢つかず清浄となることもなく、増すことも無く減ることも無いと観るのじゃ。
日々繰り返し何度も念じていると、実際に指が空と感じられるようになるのじゃ。
指が自分のものではないと感じるのじゃ。
麻酔をかけられたようにあるのにないような感じなのじゃ。
どこか遠くにあるような感じなのじゃ。
そのように感じられたならば、空の感得は出来ているのじゃ。
肉体は実在の物体であるが、人はそれを観念として自分のものであると認識しているから、空と感得すれば自分のものではないように感じるのじゃ。
それができたならば、空の感得を全身に広げていくのじゃ。
一本の指から他の指も空と念じ、手や腕も空と念じて行くのじゃ。
腕から胸や胴体や足や頭も空と感得していくのじゃ。
人によっては脳が全てと唯脳論を信じている者もいるじゃろう。
そのような者は脳も空と念じるのが効果的なのじゃ。
そのようにして全身の空が感得されたならば、肉体に強く自己同一化していた者は直ぐにでも忘我や無我の状態に入るじゃろう。
それほどではなくとも、肉体の不安や苦は消えるじゃろう。
恐れずにその結果を見るのじゃ。
途中で迷ったり、空の感得が消えてしまったりしたら、指一本の空の法に戻るのじゃ。
それから全身の空を念じるとよいのじゃ。
後に説く心の働きを空と観る法に就いて迷った時も、指一本の空に戻るとよいのじゃ。
これで色身の空の法は正しく説かれたのじゃ。
その他の法は後日に書くのじゃ。
このようにして日々実践すれば、大きな効果があるじゃろう。
むしろ効果が大きすぎて恐れる者もいるかもしれん。
肉体が消えてなくなるというような恐れや不安も起こるかも知れん。
そのような不安や恐れを乗り越えて、日々実践すれば悟りも向こうからやってくるのじゃ。
日々精進あるのみなのじゃ。
【2019-09-02】般若心経の実践法②【悟りを得るための修行法Ⅴ空の法】
身体の次は感覚を空と観想する方法を実践するのじゃ。
眼耳鼻舌身意の感覚器官と、見聞臭味触意の対象を空と念じるのじゃ。
眼によって見る、耳によって聞く、鼻によって嗅ぐ、舌によって味わう、皮膚によって触れる、心によって思いを感じるという感覚もまた空と念じるのじゃ。
それらの感覚が空と感じられれば感覚による自己同一化がなくなり、自我や苦もなくなるのじゃ。
実践としては暫く瞑想をして心を鎮めた後、眼を見開いて見るのじゃ。
眼を見開いてそこにあるのは壁とかでもよいのじゃ。
今見ているものが空であると強く何度も何度も念じるのじゃ。
それはあるものではなく、かげろうのような幻であり、どこまでも無であり、在るものでも無いものですらもないと念じるのじゃ。
更に今見ている眼も、見ることのできる力である視覚も空と念じるのじゃ。
そのように何度も何度も空と念じていると、本当にその空が感じられるのじゃ。
見ているのが壁ならば、それが壁として感じられない、見えているのに壁と認識できないというような状態になるのじゃ。
確かに眼の感覚として捉えているのに、見ることがない空の状態になるのじゃ。
そうすれば視覚の空は完成した言えるのじゃ。
同じように耳で聞くことも空と念じるのじゃ。
虫の声でも騒音でも何でも聞こえている音を空と念じるのじゃ。
聞いている耳も、聞くという感覚も空と念じるのじゃ。
何度も実践していると、耳に聞こえている音も認識せず、聞こえているのに聞くことが無い状態になるのじゃ。
感覚としては聞こえることがあるのに、認識は出来ない空の状態になるのじゃ。
そのようになれば聴覚の空は完成なのじゃ。
鼻で嗅ぐ匂いも又空と念じるのじゃ。
臭覚も鼻も空であり、在るものでも無いものですらないと観想するのじゃ。
何度も何度も念じていれば、臭覚も空となるのじゃ。
嗅いでも匂いがわからず、何の分別も無くなって臭覚の空は完成するのじゃ。
舌で味わうものも空と念じるのじゃ。
味は空であり、何等存在するものではなく、無でさえ無である絶対的な無であり、空と念じるのじゃ。
味わう舌も味覚も空と念じるのじゃ。
そのように何度も実践していれば味覚も空となるのじゃ。
更に身体で触るものも空と念じるのじゃ。
触っている手や足も空であり、触覚も空と念じるのじゃ。
触れたことによる分別が無くなり、何を触れているのかわからず、触れるということすら失念した時に触覚の空は完成するのじゃ。
最後に心に感じることも空と念じるのじゃ。
怒りや悲しみ喜びや楽しささえも空と念じるのじゃ。
いかなる思想や主張や主義も全て空と観るのじゃ。
それら全てが空であり、幻であり、存在せず、あるものでも無いものでも無いと念じるのじゃ。
それらを感じる心も、感じられる心の感覚すら空と念じるのじゃ。
そうすれば心で感じることも空となるのじゃ。
心に何が浮かんでもそれを認識せず、心が働くことも自分とは無関係に感じられるのじゃ。
心は何もしなくても勝手に働き、何もしないで静まっていくじゃ。
それにも囚われないならば、心の空が完成したと言えるのじゃ。
このようにして感覚の空を完成すれば、感覚に主体を投影していた者は自我を厭離して無我にもなるのじゃ。
感覚に主体を投影していなかった者も感覚に依存していたことに気付き、感覚から起こる苦や囚われを無くすことができるのじゃ。
感覚そのものは存在し、在るものであるが、人はそれを観念として認識している故に自己同一化や囚われが起こるのじゃ。
空と観想することでそれらの謬見が無くなり、厭離も出来るようになるのじゃ。
修行者はこのような効果のある空の法をひたすら実践するとよいのじゃ。
【2019-10-02】般若心経の実践法③【悟りを得るための修行法Ⅴ空の法】
般若心経の実践法の三番目には想念の空を観想するのじゃ。
想念とは観念と言ってもよいのじゃ。
名前と形のイメージによって認識される心象なのじゃ。
悟って居ない者にとって全ての物事は、この観念によって認識されているのじゃ。
あるものが在ると認識するには、名前と心の中のイメージに拠るしかないのじゃ。
名前とイメージによって分別できないものは無いとされるのじゃ。
観念を空と見なすことで、あらゆる認識の対象から解放され、囚われなくなるのじゃ。
それは自分という観念にとっても同じなのじゃ。
観念が自分として自己同一化している者は、この想念の空を怠り無く実践することで無我にもなれるのじゃ。
想念の空には二つの効果のある実践があるのじゃ。
一つは執着する全てのものごとの観念を空と観ることなのじゃ。
心の中で何かに執着していれば、修行の道も進まないのじゃ。
金とか名声とか権力とか異性に執着したままでは、心は悟りを求めて自我を滅しようとはしないじゃろう。
そのような執着を捨てるために、執着の対象を空と観る方法が必要なのじゃ。
もう一つは自己の観念の空なのじゃ。
これが本来の修行の道といえるものじゃ。
自分という観念を空と観ることで、自我の厭離が起こり、自己同一化がなくなるのじゃ。
修行の順序としては先ずさまざまな執着を空として取り除くことから始めなければならないじゃろう。
執着があれば修行は進まないからのう。
あらゆる執着を取り除いてこそ、修行も速やかに進むのじゃ。
何かに執着していれば、苦も起こるものじゃ。
執着の対象を空と見なすことが出来れば、苦もなくなるのじゃ。
これこそ心経の法を実践をする上での最も大きな利点と言えるのじゃ。
観念を全く生じないようにするのは、悟っていない者には困難なことじゃ。
観念を消そうとすると、観念は消えず、観念が消えないというその観念によって又苦しめられるのじゃ。
そのような苦は誰もが経験したことがあるじゃろう。
例えば異性に強く執着して何度も考えて、苦しいからもはや考えないようにしようとしても又考えてしまう。
更に考えないようにしようとしても出来ないことが苦になる。
異性だけでなく、いろいろな執着によって何度も体験したことじゃろう。
そのような繰り返しで貴重な人生の時間を消耗してしまうのじゃ。
そのように観念に取り付かれて消せない時に、心経の空は効果を発揮するのじゃ。
観念は悟りを得ていない者には容易に消すことは出来ないが、何度も繰り返し観想することで変えることは出来るのじゃ。
観念を空に変えれば、消したことと同じ効果があるのじゃ。
金に執着しているならば金とは空であり、無いものであり、増えることも無く減ることも無く、清浄でも汚くも無く夢幻であり、存在し無いものであると観るのじゃ。
名声に執着しているならば名声とは空であり、無いものであり、増えることも無く減ることも無く、清浄でも汚くも無く夢幻であり、存在し無いものであると観るのじゃ。
そのようにして執着の対象となるあらゆるものを空と何度も観想し、念じるのじゃ。
執着の対象を空とすることで厭離も起きて、修行も進むのじゃ。
更には修行のための法もあまりに執着すれば、苦になり、修行の妨げにもなるのじゃ。
それもまた空と見なして捨てるべきなのじゃ。
心経には苦集滅道も空と記されているのは、そのためなのじゃ。
四諦十二因縁全てが空と見なせば、法に対する執着をも消せるのじゃ。
それが出来れば自己の観念をも空と観ることに進むのじゃ。
悟りを得ていない人間は自己をも観念として認識しているのじゃ。
心の中の観念を自分と認識しているのじゃ。
観念の自分は自分の名前と、自分の姿形、形象、イメージによって出来ているのじゃ。
それを自分と認識しているから、自分の名前を広めたいと思い、他人に与えるイメージを良くしたいという執着も生まれるのじゃ。
そのために時には自分や他人の命さえも顧みないことさえあるのじゃ。
それが多くの苦と混乱を引き起こしているのじゃ。
自己の観念を滅するために、名前とイメージの空を実践するのじゃ。
自分の名前が空であり、自分の姿形、形象、イメージも空であると何度も観るのじゃ。
自分の名前が空であり、無であり、夢幻であり、減ることも増すことも無く、あるものではなく、無いものでもないと観る時、名称による自己同一化がなくなるのじゃ。
そして自分の名前による執着、名前を広めたいという欲が無くなるのじゃ。
同じように自分のイメージ、姿形、形象が空であり、無であり、夢幻であり、減ることも増すことも無く、清浄となることはなく垢つくこともなく、あるものではなく、無いものでもないと観れば形象による自己同一化がなくなるじゃろう。
それが出来れば安らぎがあるじゃろう。
他人に与えるイメージを良くしようと思う欲がなくなるからなのじゃ。
名前と形象による自己を守ろうとする緊張も無くなるから神経も解放されるのじゃ。
同時に自己の観念のための欲と動機も無くなるから、あらゆる心の働きも沈静化するのじゃ。
そのようにして一時的な忘我であるサマーディも容易に達成できるじゃろう。
更に自己の観念が空であると、完全に気付いたならば、無我にもなるじゃろう。
無我になっても観ているものがあると気付き、それもまた空であると観るならば、大悟徹底も完遂されるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。
【2019-11-02】般若心経の実践法④【悟りを得るための修行法Ⅴ空の法】
行とはものごとを分別する働きなのじゃ。
知覚したものごとがどのようなものか、記憶に拠って分類するのじゃ。
認識の一環として働くものであり、通常はその働きは無意識に行われ、観ることもできないものじゃ。
それを見極めて空として観想することで、妄念を産む分別の働きを止めることができるのじゃ。
人が通常、何かを知覚したならば、即座にそれが何か観念によって分類する働きが心に起こるのじゃ。
例えばりんごを見たならば、それが赤く、丸いという特徴から、りんごの記憶と照合され、それがりんごであると観念によって認識されるのじゃ。
何かを知覚すれば、その働きはそうしようと想わなくても自動的に起こっしまうのじゃ。
観念を自動的に起こす働きなのじゃ。
その行の働きがあれば観念はいつまでも起こり続け、思考や感情をも次々に起こるのじゃ。
それは記憶しているものならば、直ぐにそれらの特徴がわかって便利な反面、人には不利益なことも在るのじゃ。
分類が素早く無意識に行われてしまう故に、苦を生じるものごとを知覚した時にも、素早く苦をもたらしてしまうのじゃ。
そしてその働きは無意識であるから、意識的には止められないのじゃ。
そのような苦を生む働きを止めるために、空の観想が役に立つのじゃ。
通常ならば余りにも素早く働く故に、行はその働きを感じることすら難しいじゃろう。
しかし、それを自覚する方法もあるのじゃ。
今まで見たこともないものごとを知覚した時、行の働きはいくつもの記憶と照合するために、かなり遅く働くのじゃ。
りんごに似ているが色が違うとか、形が違うという物を見れば、それはりんごかなしか、或いはみかんかと、暫くの間迷いが生じるのじゃ。
その時には分別する働きは遅く成る故に、自覚できる時間もあるのじゃ。
そのようにして行の働きを自覚できたならば、それを空と観ることも可能になるのじゃ。
常日頃から注意して自分の心の働きを観察しようとしているならば、それも観られるのじゃ。
それは観念を起こす働きである故に、それを空として止める事が出来れば、観念をも生じなくさせることが出来るのじゃ。
行の働きを自覚することは困難であるが、一度それが観られて空と観想することができれば、観念の根本から止める事が出来る故に、観念を滅するよりも強力な方法となるのじゃ。
観念がいくら滅しても次々に湧いて止められないという者も、行から滅すれば止める事が出来るようになるじゃろう。
原因から滅する事が出来るから、強く執り付かれている観念に対しても有効な方法となるのじゃ。
実践によって確かめてみるのじゃ。
【2019-12-02】般若心経の実践法⑤【悟りを得るための修行法Ⅴ空の法】
般若心経の最後の実践は認識の空を観じる方法なのじゃ。
認識とは人の全ての心身の働きの根本にあるものじゃ。
認識が無ければ全ての心身の働きは行うことが出来ないのじゃ。
認識するという心の働きと、認識の対象と、認識の主体が全て空であると念じれば、全ての心身の働きも消え去るのじゃ。
認識することが無く、認識対象と認識主体が無ければ、全ては無になるのじゃ。
認識することが無ければ何かをしてもしなかったことになるのじゃ。
知識も無く、分別も無く、およそ言葉にする事も全てなくなるのじゃ。
そのようにして認識が止まれば、自分という認識も止まるのじゃ。
自分という主体が無く、他人という客体もない。
知覚するものも無ければ、働きもない。
その時、真の無為が為されるのじゃ。
自分が無くもはや心の働きも無く、言葉にする事もない無為の境地に在れば真の大悟徹底の境地にも参入できるのじゃ。
最後の境地にまで至るには、悟りを達成するという強い意志が必要になってくるのじゃ。
認識が空であると強く念じれば、あらゆるものごとが認識できない状態になるのじゃ。
それは狂気の状態に似ているのじゃ。
それに恐れをなして逃避してしまう者もいるじゃろう。
そもそも人は認識された知識による世界に住み、それを自己よりも先にあり、従うべき世界であるとして自己よりも高い価値観を持っているものじゃ。
それがなくなるということは混乱に還ることであり、知識による世界の整合性を求めていた者には到底受け容れられない事じゃろう。
洋の東西を問わず、人の作り上げた世界は知識の大きな集合としてあり、知識の王国とも言えるものじゃ。
知識を多く集め、知識を積み上げることが人間の最も偉大な営みとして認められてきたのじゃ。
それらが無くなる事は自分個人としての破滅ではなく、世界全ての破滅にも思えるものじゃろう。
西洋では知識を愛することが哲学として全ての学問の上位に位置づけられているのじゃ。
分別や知識を無くせという教えは、人の営みとして本来ありえないものとさえ言えるのじゃ。
しかし、大乗仏教ではそれを実践せよと説かれるのじゃ。
知識や分別を無くすことが、生き物としての至高の境地である悟りに通じるものであると言うのじゃ。
このような逆説的な教えを実践し続けるには、正に強い悟りへの意志を奮い起こさねばならないのじゃ。
狂気にも似た無分別の状態を乗り越えたならば、更に法を捨てる段階に入るのじゃ。
般若心経で苦集滅道、十二因縁さえも空と説かれた通り、仏陀の教えさえも空としなければならんのじゃ。
それは空の法も同じなのじゃ。
このすべてを空と念じる法さえも空と観るのじゃ。
正に空を空と観るのじゃ。
空は空と異ならず、空は即空であると観るのじゃ。
これこそ般若心経の文字には表れない、文底に隠された最後の法なのじゃ。
狂気にも似た混沌から無為に入り、法をも捨て去った時、真の悟りは芽生えてくるのじゃ。
その時、自己を捨て去ったことから心身の完全な統御を得ているじゃろう。
観念を捨て去ったことから観念の完全な理解を見出すじゃろう。
知識を捨て去ったことから智慧の完全な完成を遂げているじゃろう。
観念の一つである死はもはや無く、永遠の安楽が実感できるじゃろう。
時間が無いことが永遠であり、全てが意識であるから空間と言えるものも無いのじゃ。
そのような大悟徹底の境地に至るまで実践あるのみなのじゃ。
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