アチドージスとアルカロージスについて 西勝造

アチドージスとアルカロージスについて 

西勝造

私は幼少の頃から病弱

でありまして、17歳の時、佐々木医学博士から20歳位まで生きられるかどうかという宣告を受けました。当時の大病院の院長をしておられた佐々木先生は、当時としてはかなり有名な医者でありました。そこで私はその当時の医学に反抗し、あるいは巣鴨の禅寺において仏法を聞き、あるいは海老名氏にキリスト教を聞き、あるいは民間療法を研究し、かなり煩悶憂鬱苦心したのでありますが、結局において現代の医学を離れては真の健康は得られないという結論に到達したのであります。

私は大正11年5月に東京市の技師を拝命したのでありますが、日本人の平均寿命は当時44歳と発表されたのでありましたから、当時39歳の私は、それまでに研究して得たる健康法を、この平均年齢の44歳に達するのを一日千秋の思いで待ちまして昭和2年初めて世間に発表したのであります。ところが当時の人々は、医学者の説なら何も聞く必要がない、といって医学の医の字があっても振り返ってくれない。つまり素人の研究した健康法として歓迎したのでありますから、その翌々年実業之日本社誌上に発表したものもなるべく医学の方面には触れないようにしたのであります。ところが非常の歓迎を受けまして、遂に従来の健康法や民間療法をことごとく圧倒してしまったのでありますが、その中に書いてある事柄は、大概医学的研究の結論であったのであります。しかるにその後、世間の人々の考えが次第に変わってまいりまして、いったいあなたの強健法には医学的根拠があるか、こういう質問を出される方が、だんだん増えてまいりましたから、私は喜んで今回の書物『アチドージスとアルカロージス』を出すことにしたのであります。

初めに実業之日本社から出版しました『西式強健術と触手療法』の160ページから164ページには『手の傷と伝染病』と題しまして、「諸子が手に怪我をされたら高く上げて振れば治る」と書いておきました。それはもちろん科学を基調とした医学的研究の結論でありますが、外科医は嘲笑をもってこれを眺め今なおインチキ呼ばわりをしていられるのであります。指の一節位は切り落としてもこれを拾って軽く包帯で巻き、高く上げて微動から初めて振れば化膿もせずに治るのは明らかな事実でありますが、

これは普通の頭ではわからない

のが当然でありますから、今回の書物はその理論のいろは即ち初段を書いたのであります。しかしこれだけではまだわからない。もう1つ理化学と微積分で説明して初めて、手足の怪我が、高く上げて振れば止血して化膿せず治るという理屈がわかるのであります。そしてこの理化学や高等数学を、現代の医学でわかる程度に書くというのは誠に窮屈千万な話であります。私は工学家で道楽は数学でありました。工学家は数学ができなければ職が務まりません。私は工学家として大成功は致しませんが、私の得意は数学でありまして、21歳のとき三井鉱山会社に入り、28歳のときから3年間明治専門学校の研究生となり、再び三井系の炭山に勤め、出水に悩める竪坑開削に日本において初めてセメント注射法を応用して成功し、34歳に洋行し、36歳のときに炭礦長となり、39歳のとき聘せられて東京市の役員となりますまで、常に田舎の山中で過ごしたのであります。そして東京市に入ってから大に地下鉄道の必要なことを唱道したのでありますが、その相手は鉄道省や内務省の人々で、田舎者が何を言うというようなわけで私は非常の困難に逢着しました。しかし常に数学的根拠に基づいて設計を立て経営方針等を熱心に説明主張したため、遂に今日のように地下鉄道が開通できることとなったのでありまして、これ皆、数学的基礎の賜であります。

さて、この手を高く上げて振れば治るとういうことは、いつも私の持論として申し上げる通り、心臓はポンプに非ずしてタンクである、ここから出ておるのであって、これは全く数学上の問題である。これをわかっていただくには、本当の数学がわかっていただかなければならない。だから私は常に、何でも数学でおいでなさい、こういう態度を取っているのであります。私は在米中コロンビア大学の附属病院において常に見ておったことでありますが、怪我したときの手当ては、エーテルで拭って沃度で消毒をして包帯をする、それだけである。そして治すほうも治されるほうもこれが真の治療法であると心得ている。当時の医学的知識はでは、あるいはそれが最上の方法かも知れませんが誠に笑うべきことでありますから、回らぬ口で揶揄しても、てんで馬の耳に念仏です。事柄が奇抜で平手(*下手?)な英語ではわかりっこはないのです。

さて、私が今回アチドージスとアルカロージスと題する書物を出しましたのは何故であるか、これについて申し上げなければならないことは、私がかつて鎌倉において釈宗演、南天棒、その他の高僧連から普勧坐禅儀とか坐禅用心儀の講義を聞いたことについてであります。それからまた、古今の経書などを紐解いてみると、この

アチドージス、アルカロージス

の根本に触れている点が非常に多い。それで私は、今回の新刊書には第一篇第二篇は専門医学の見地より説述いたしておりますが、第三篇結語のところには右の普勧坐禅儀や中庸等を引用しました。中庸の初めの章句

子程子曰。不偏之謂中。不易之謂庸。中者天下之正道。庸者天下之定理。

これにはポーチェ氏の仏訳とレッグ氏の英訳とを添えておきましたが、アチドージス、アルカロージスの原理も、すっかりこれで尽きている。つまり酸性アルカリ性のいずれにも偏らないのが健康の要諦なのであります。また

喜怒哀樂之未發。謂之中。發而皆中節。謂之和。中也者。天下之大本也。和也者。天下之達道也。致中和。天地位焉。萬物育焉。

中庸を得ておらなければ天地万物が生育せざると同様に、酸、塩基の平衡を得ておらなければ、人も完全に生育しないのであります。

このアチドージス、アルカロージスのことは専門家は既にご承知と思います。アチドージスという言葉は、酸の過剰と言っても完全でないし、アルカリ欠乏症もおかしい。酸毒症と訳しても適訳でない。やはりアチドージスと言うのが最もよろしいのでありますが、早くも大正8年に医学博士五斗欽吾先生が『アシドージス』と題した著書を出しておられます。私は購入して再三再四繰り返してこれを精読し、その後、先生の挙げられた参考文献をことごとく手に入れて原文と比較対照の上研究したのであります。その後このアチドージスとアルカロージスの研究は次第に進んでまいりましたから、私は、誰か日本の医学者が邦文で書いたものを出されそうなものだ、と期待しておりましたが、誰も容易に手を付けませんから、私は昨年以来原稿の整理に着手しほぼ纏まったところ、あたかも昨年10月、グラスゴー大学のグラハムおよびモーリス Stanley Graham and Noah Morris : – Acidosis and Alkalosis, 1993. 両氏の新著を手に入れましたから早速読んでみますと、すこぶる簡にして要を得たるこの種の著書中稀に見る良書でありますので、断然前に書いた原稿を放棄し、両氏の著書を基礎として書き上げたのが今回の新刊書であります。しかし私は素人でありまして、訳語等は日本の専門家の手に成った医学辞典によることに努めましたが、なお誤りなきを保しがたいのでありますから、これらは他日訂正を致す考であります。また今回の出版について本郷の文光堂書店主浅井氏の義侠心に感謝するものであります。それは今回の本は医者の方に読んでいただくのでありますから、もし医者の手に成ったものなら、出版を引き受けることに別に問題はありませんが、素人が書いたものでありますから、専門家が果たしてどれだけお買いになるかということは非常の疑問で、犠牲的の精神がなければ出版を引き受けることができない。この意味において浅井氏の厚意を多とするものであります。

さて我々の身体は、常に酸とアルカリの中和を得ておらなければ真の健康を保つことはできないもので、この中和が破れればあるいはアチドージスになったりあるいはアルカロージスになったりするのであります。これはただ人体のみに限らず、化学現象の中にも非常に面白いことがありまして、新刊書の第三篇に転載させていただきました竹村貞二氏の名著『化学変化思索の原理』の一節はこの間の消息を極めて巧妙に記してありますから是非ご一読を願いたいと思います。なお第三篇には普勧坐禅儀の一節を引用してあります。同書は字数758、ことごとく四六駢儷体の流麗な文章からできております。同書の中に

乃正身端坐。不得左側右傾前躬後仰。要令耳與肩對。鼻與臍對。舌掛上腭。脣齒相著。目須常開。鼻息微通。身相既調欠氣一息。左右搖振。兀兀坐定。思量箇不思量底。不思量底如何思量。非思量。此乃坐禪之要術也。

とありますが、この普勧坐禅儀について、いつも思い出すのは米国ボストンの

バンクロフトという女流体育家

のことであります。この方は日本でいえば二階堂女史のような方で、私もあちらにおりますときお会いしましたが、常にこういうことを主張しておられる。それは、誰でも耳の前縁から下した垂直線は、肩峰の上に落ちるような姿勢でなければならない、ということで、当時私なども姿勢が悪いといって注意を受けましたが、多年の習慣で容易には直らない。その後努力して今のところまで漕ぎつけたのでありますが、これをバンクロフトの耳の試験法(Bancroft’s Ear test)と称して、グールド氏の書物などにもチャーンと載っております。ところがこの耳の試験法と同じことが普勧坐禅儀に書いてある。それは、左右前後いずれにも傾かぬようにし、耳と肩と対し鼻と臍と対していなければならないと、極めて精細に説いているのであります。

これらはいずれも姿勢を正しくしなければならないことを説いたもので、姿勢が正しくなければ種々の疾病を誘発するものである。たとえば医学辞典を紐解いて瘰癧(Scrofula)というところをご覧になると「この病気は結核性にして治らざるものなり」と書いてある。しかしこれは世を誤るも甚だしいものであります。すなわち頸部に結核菌の寄生するのは肺胞が十分開いていないということが根本原因で、肺胞が完全に開かなければ血液は完全に肺胞に吸収されず、吸収されないから心臓の右心房、右心室が収縮できない。だから頸部静脈に鬱血して結核菌を繁殖させ瘰癧が治らないので、この、肺胞が十分に開かないのは取りも直さず姿勢が悪いからである。もし姿勢がよければ肺胞は十分に拡大するから頸部の静脈も鬱血が起こらず瘰癧にかからない。仮に冒されてもたちまち治るのでありますから、この医学辞典の文句は「ただし姿勢をよくするにおいては治るものなり」と訂正する必要があると思います。しかし姿勢を正すということを誤解してはいけない。無闇に反っくり返って姿勢が正しくなったとか腹が出たとかいって喜んでいる人があるようですが、腹部の出るのは妊娠か内臓下垂症か下腹部肥満症などでいずれも正常の状態ではないのであります。それから普勧坐禅儀の次の文句、左右揺振、兀兀坐定でありますが、これについて私が少年時代に某高僧に質問したことがある。ところが先生は「若輩、馬鹿!」と一喝されそれで片を付けてしまわれた。その頃はそれで納まったものでありますが、しかし私の疑問はこれで解けたのではない。いったい古人は文を草するに極めて慎重の態度を取ったもので不用の文字はできるだけ省いたに違いないのである。しかるに左右揺振、兀兀坐定の文字が四四の対句で麗々と記されているところを見ると、必ず両方とも軽く見るべきでない、何らかの意味があるに相違ない、こういう私の好学心はますます募って、あるいは支那に求めあるいはインドに求めいろいろと研究した結果、この「左右揺振」なる文句に極めて重要な意義を発見したのであります。禅の研究家として有名な原田祖岳先生、私は竹越さんのご紹介でお目にかかりましたが、左右揺振に対する私の説をお聞きになって、非常に共鳴され、長い間禅を研究しているが左右揺振の意味が初めてよくわかったと言われて、著書にもこのことを書かれ、講演の折にも述べられております。ところが左右揺振だけをおこなうと酸過剰になりアチドージスになりますから、そこで兀兀坐定すなわち静坐法、深呼吸法が必要となるので、ここに酸とアルカリとが中和して中性となるのであります。なおその後英米独仏等の文献を調べてみましたが、

腹式呼吸を2、30分間続けてやれば

アルカロージスになるということが至るところに述べてあります。つまり脊柱のみを動かすときはアチドージスとなり腹部の運動のみをおこなえばアルカロージスとなるのでありますから、左右揺振と共に兀兀坐定をおこなうこと、すなわち背と腹を共に動かす運動が必要になってくるのであります。

カッツエンシュタインは、臥位で血圧を測り次に両股のプーパル氏腺の動脈を圧迫して血圧を測るか、あるいは立位で測ると10ないし15ミリ上がるのが普通である、もし上がらなければ心臓の弱い人である、こういうことを書いております。これを医家はカッツエンシュタイン氏法と認めている。私はこれは面白いことだと思ってその後血圧について研究を進め、未だ世界のどの学者も試みなかった血圧の数学的証明を完成し実業之日本社から昨年春に出版した『西式血圧病療法』の第5章にこれを載せております。しかし私は医師や専門家ではありませんから、別に学界に報告するということもしないし、もし専門家のほうでご希望があれば喜んでこれを差し上げるつもりであります。そこで血圧は最大、最小、脈圧の比が3.14:2:1.14の比をなしておらなければならない。この比が正しくなっておれば絶対に脳溢血で倒れる憂いがない。ゆえに私は「脳溢血は自殺行為なり」と絶叫しておるのであります。これはカッツエンシュタインの説より暗示を受けたのであって、氏の説も究極は心臓タンク説に帰着するのであります。して見ればカッツエンシュタイン氏法を認めている医家ありとすれば自ら心臓タンク説を納得しているわけでありますが、一方を認めて一方を認めない、そういうような医者に、真に人の生命を扱う資格がありましょうか?尤も上記の数字は理論上の数値でありましてその近似数は3:2:1でよろしい。しかしてこれに到達する最も効果的の方法は平床に寝むことで、厚い敷布団を用いておっては望みがたいことであります。しかし痩せた骨と皮ばかりの病人を、イキナリ板の上に寝かせるというのではない、敷布団3枚の人はまず2枚に、2枚の人は1枚に減らして追々と練習して最後に板に寝るというところまで順序を追っていくのであります。これは現代医学とはかなりの距離がありまして、その中間にいろいろ面倒な証明を要するのであります。

手足の怪我をしたときに高く上げて微震から追々強く振るというのもアチドージスとアルカロージスの理論がわかれば納得されることであります。我々の体液は弱アルカリ性でありますから怪我のために、そこにアルカリ液の洪水を起こし、腐食作用、浸蝕作用を起こすのであります。東北地方や九州地方などで洗濯に使う皂莢(さいかち)の実も強アルカリでありますから、竹の箸か木の棒のようなもので洗濯物を取り扱っている。もし直接手指をその中へ入れるとアルカリに冒されて手の皮膚が剥けてしまうからです。体内のアルカリ過剰もまたこれと同様であって、例えばアルカリ性の野菜食ばかり摂っておりますと、胃壁が荒れる、つまりアルカリに冒されて胃潰瘍や胃癌などにかかりやすくなる。これに反して酸性食にばかり偏すると、糖尿病などに罹りやすいのであります。かの有名なる山下大僧正は今月上旬104歳で入寂せられましたが、上人が老年に及んでからの食事は朝は粥を少量、昼と晩は大抵うどんであった。上人の98、99歳頃と思うが、某医学博士は、上人の食事について意見を発表されました。その要点は、いったい、老人になればアルカリ性である野菜食を摂らなければならないことになっている。しかるに山下大僧正は高齢に拘わらず酸性食品が6割6分強も勝っているものばかりを摂って、しかも健康である。だから酸性、アルカリ性という食事のことは体質によって相違があるから未だ一概に言うことはできない。こういうことを某雑誌に発表されました。しかしこれは肉体だけを考えた議論で精神方面を全然閑却したために、こういう錯誤に陥ったのであります。大概の人は70歳以上にもなりますと、

同年輩の仲間がだんだん死んでいく

誰も死んだ彼も死んだ某も死んだ、今度は自分の番ではないか。常にこういうことを考えていらいらしているから体液が酸性に傾いている。それでアルカリ性の食物が必要なのであります。ところが山下大僧正のような方は大悟徹底していられるから生死を超越し心中何らの不安も焦燥もなく落ち着いていられる。したがって体液は常にアルカリ性が勝っておりますから、酸性食が適している理由は自ら明らかであろうと思います。

このように人体の問題は、単にフラスコ内の実験だけでわかるものでない。最近も白米や玄米について実験を発表しておりますが、1回に食物を与えるのと3回とか5回とかに分けて与えるのでは、数回に分けて与えたほうが成績がよいと言っておりますが、ネズミを箱の中に入れて食物をただ1回だけしか与えないとすると、ネズミは非常の恐怖心に駆られアチドージスに陥るから短命なのは当然であります。いわんやこれを直ちに人に移してどうのこうのと言うことはいささか常識を疑わざるを得ない。人はネズミではないからです。

酸アルカリの平衡の破れた場合、すなわちアチドージスまたはアルカロージスのいずれかに罹った場合には、これを中和せしむべく種々の代償過程が起こります。たとえば運動は酸性を発揮しアチドージスを誘発する。アチドージスの代表的疾患は糖尿病でこれが高じると昏睡に陥るものである。昏睡は即ち絶対の静止すなわち安静に到着するものであり、この安静によって予備アルカリが出動するのであります。しかるに安静すなわちアルカロージスの代表的疾患はテタニーすなわち強直性痙攣で、強直性痙攣は取りも直さず運動である。これによって酸度を高めるのであります。つまり運動の結果アチドージスとなり昏睡(安静)によってアルカロージスとなり痙攣(運動)を起こす、という具合に常に生きんがために循環を致しております。

私共は酸アルカリのいずれに偏してもいけない。安静だけでも不可、運動だけでも不可である。脊柱の運動は酸性であり腹部の運動はアルカリ性でありますから、背と腹を同時に動かすことが必要である。そこで互いに相中和するから中性の水を飲むのである。「背と腹を共に動かしビール飲み」では酸性となり、「番茶飲み」ではアルカリ性となる。水は1000万リットル中に1グラムのイオン化せる水素と同じく1グラムのイオン化せる水酸基とを含み完全に中性となっているものでありまして、この中和状態に至ったときに、よくなると思えばよくなり、悪くなると思えば悪くなるのです。故にもし精神療法を閑却する医家ありとすれば、非常なる無智を表明するものと言わなければなりません。

新刊書の44ページに掲げました挿図はヘンダーソンの本から借用した血液炭酸の変化類別表で、体内の水素イオン濃度を示すものである。腹式呼吸ばかりをやっているとpHが上がってくる。筋肉運動たとえばラヂオ体操などばかりやってこれを3ヶ月も継続すれば風邪を引きやすくなり、腎臓病、扁桃腺炎等に罹りやすくなるもので、これは皆筋肉の間に酸が堆積するためであります。背と腹を共に動かす運動の必要なことはこれでおわかりのことと思います。先刻申しましたアルカロージスのために強直性痙攣を起こすのは酸を出さんがためであり、アチドージスなる昏睡に陥るのは予備アルカリを出動させるため、つまりいずれも生きようと治ろうとするもがきであり、中庸を得んとするあがきであって、要するに1つの代償過程にすぎないのであります。しかるに現代医学はこれを疾患と間違えているのは誤りもまた甚だしきものと言わねばなりません。しかし生命に係わるような痙攣や昏睡のドン底まで持って行くということが既に罹患軽症の当初より間違っているからで、甚だしい痙攣や昏睡は避けなければならないと誤認するのも是非ないことで、そこまで行かない内に軽微な痙攣や昏睡をこよなるものと、これを補佐して治すことが必要であります。これに関連して申し上げておきたいことは、よく夜分に十分に眠れないといって苦しんでいられるときの心得であります。眠れないのはアルカリ過剰のためか酸性不足のためであって、就寝前に番茶などを飲んで眠れないというのはそのためであります。しかしこういうときには、無理に眠ろうとしたり慌てたりせず、酸の生成に努むべきで、

睡眠薬を用いるなどは愚の骨頂

であります。ただ休養して疲労を回復する方法を講じ、あとは中和を計るようにすれば3晩や4晩程度徹夜をしても平気である。先年東京市の電気局の罷業の際、私は3日間寝ずに活動したので皆驚きましたが、これは疲労の回復と体液の中和とに努めたからであります。田園生活をしておられるお家などに参りますと、出るご馳走も出るご馳走も皆アルカリ性の野菜物ばかりで、少し位は酸アルカリの理論位を心得ておってもよかりそうなものだ、と思うようなこともありすがしかしそう心配するには及ばない。それは帰りの汽車なり電車の中で脊柱のみの運動をやればよろしい。また反対に海浜地方に参りますと魚肉の料理で酸性食ばかり出されたときには車中で姿勢を正しく少し反り身で腹部の運動をやりさえすれば、体液は自然に中和されて少しも心配がないのであります。

明治29年6月11日博文館発行の、陸軍薬剤監石塚左玄氏は、科学的食養長寿論を著しまして専らアルカリ、すなわちカリウム、ナトリウムの平衡を論ぜられましたが、これは40年前の英国のマッキンレーの著書を基礎としたものでありまして酸、アルカリの平衡の生まれない片一方のアルカリについての夫婦塩とか双塩食養とかを論じたもので、只今ではよほど片田舎の健康屋さんが飯の種に振り回しております。

我々の体内に脂肪代謝作用の産物がよく酸化せられない場合には、体内にケトン体と称せられる物質が堆積することがありまして、かかる状態をケトージスと申します。糖尿病は即ちケトージスの例であります。しかしケトージスもアチドージスに包含されるのです。食物はケトン形成性のものと反ケトン形成性のものとの2つに分かれまして、だいたいにおいて前者は酸性食品であり後者はアルカリ性食品のものでありますが、中には反ケトン価がケトン価に勝っていて酸性食物のものもあります。例えば甘藍の一種であるブラッセルス・スプラウトであるとか、小麦(白)であるとか、オートミール、エンドウ、白米もそうです。ですから、よくこの両方のものを見合って摂取する必要があります。その例は新刊書の246、7ページの表に出してあります。

それから237ぺージに沐浴という項目を設けてありますが、水浴は体液を酸性に導き温浴はアルカリ性に誘導するものでありますから、温と冷との交互浴、すなわち温冷浴が最もよろしいのであります。我々は衣服を着ておりますから水浴より初めて水浴に終わる温冷浴をおこなえば特に身体を洗うという必要がありません。不潔物は自然に排除され、皮膚の活動が完全となって垢は自然に剥離するからであります。この皮膚の収縮と拡大とを完全にすることは、また腎臓の働きを完全ならしむる所以であり、腎臓の働きが完全であれば体内に生成せられた酸類もまた十分に排除せられます。しかし厚い敷布団に寝んでおっては腎臓の機能的働きが完全にできませんが、平床上に寝まるれば力学的物理学的の関係よりその働きが旺盛となり、pHも7.28-7.4の間にあるようになります。この、平床の効果は近年各国ともこれを認めるようになりまして、欧州大戦後、

カリエス患者を板の上で治療

する方法が用いられております。またボストンの健康増進所は政府の補助を受けておるところですが、ここではコンクリート平床をつくって患者をその上に寝かしている。かくのごとく、私の申し上げることは全て信ずるに足る参考文献によるものであります。尤も西洋だからとて油断はできません。ずいぶん山勘も沢山おりますが、私は、人格あり名望あり学識ある人々の著述によっていることは申すまでもないのであります。

次に肝油を飲むことについて一言申しておきますが、肝油を飲みすぎていけないことは改めて言うまでもない。また肝油は、食後すなわち満腹時に飲めば体液をアルカリ性に導き、空腹時すなわち食前に飲めば酸性に傾かしむるものでありますから、体質や飲むときの身体の状況をよく考える必要があります。しかしながら、この酸性、アルカリ性も姿勢の如何によってある程度これを変化させることができる。薬剤ではピロカルピンを注射すればアルカロージスに近づき、アトロピンを注射すればアルカリ誘出を抑圧するものでありますが、しかし注射をしなくとも、太陽叢を押さえ首筋を伸ばす自己操作によってこれと同様の効果を現すことができます。仏国のルブラン博士の研究による頸椎7番と胸椎1番との間の左右神経節を指頭圧をしたり離したりすればピロカルピンを注射したと同じ効力があります。しかしこの操作も度を過ぎるとアルカリ過剰になりますから、そのときには乳嘴突起の後方を圧せばこれを抑止することができます。ピロカルピンは瞳縮発汗剤でありますがこれは頸椎7番の刺激、アトロピンは瞳孔散大剤でこれは胸椎3、4番の間の神経節刺激によって、それと同様の効果を挙げることができます。指頭圧または鍼灸等もこの意味において一面の真理を含んでおります。なおこれらの関係についてはミューレルの著書より引用して240ページに載せておきました。(Dr. L. R. Muller: – Lebensnerven und Lebenstriebe,1931)

なお実例について申し上げますと、中耳炎はアチドーゼであります。私はかつて鼻が詰まるのは頸椎の故障によるもので、これを矯正するには、どうしても枕のことを考えなければならない、枕は、子供には不要であるが、大人にはどうしても必要である。そしてその高さを定めるには体液の酸アルカリの平衡という点から見て一定不変のものでなければならないので、いろいろと研究いたしました結果、本人の薬指の長さを半径とした丸型の硬枕が最もよい。ということに帰着したのであります。それで鼻の詰まったときには、この硬枕をして寝れば大概治る、それでもし治らなかったら眼の視軸を整えると治るのです。その方法は遠方に1つの目標を定め、眼の前に指先または鉛筆の先などを出しこれを遠方の目標と眼の間に置いて見ると、指先が2つに見えます、このとき指先を前後に迅速に動かすのであります。これを幾度も繰り返せば視軸が矯正されます。この方法を射的に応用してごらんなさい、鉄砲の台尻を下げて的を狙えば実に百発百中疑いがありません。これらの理由についてはいずれパンフレットとして出版する予定ですが、今後これに類した小さなパンフレットをたくさん出すつもりでおります。すなわち「医学の将来」「足は万病の基」「風邪の話」…等約7、80種に上るだろうと思います。

だいたい中耳炎というのはアチドージスの結果でありますから、頸椎7番を叩打すれば予備アルカリを引出して快癒するのでありますが、しかしあまり叩き過ぎると腎臓に故障を起こす憂いがありますから、患者を正座させ、胸椎10番に膝頭を当てて1分間150回ないし200回の速さで叩打すれば、腎臓の故障を起こすことなしに目的を達することができます。

次は風邪でありますが、風邪はアチドージスでありますから動いてはいけない、絶対安静がよいのであります。しかしこの

絶対安静を履き違えて

何にでも絶対安静を強いるのは誤っている、たとえば幽門狭窄症はアルカロージスであるからこれを絶対安静にしたのではますます予備アルカリを助長して却って悪化するのであります。それなら歩き回るのがよいかと言うにそうではない、いったい幽門はどういう立場の器官であるかを弁えてから処置を講ずべきでありますが、まず病気になったら医者にかかることをお勧めいたします。しかし私の読んだ医書位の理解あり、読破されたお医者ならなおさら結構であります。

米国のヌーズム先生著書『人の寿命』 “Nuzum : – The Span of Life, as influenced by the Heart, the Kidneys and the Blood vessels. 1933,” という本は米国の統計局でつくった統計を基礎にして著されたものでありまして、それによりますと、

*甘藍 (かんらん):キャベツのこと

甘藍(かんらん)はどんな植物?Weblio辞書
「甘藍」の意味はキャベツの別名のこと。Weblio国語辞典では「甘藍」の意味や使い方、用例、類似表現などを解説しています。

*乳嘴 (にゅうし):「乳頭1」に同じ。

乳嘴(にゅうし)とは - コトバンク
大辞林 第三版 - 乳嘴の用語解説 - 「乳頭① 」に同じ。


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